このページでは、当サイトを閲覧された方や、個別のサービスを受けられた方、セミナーに参加された方からなどの感想や質問を受け付けております。
ただし質問内容は、身近に起こった気になる合図・お知らせの意味合い、ひも解き方を中心にお答えさせていただきます。
例)朝、車のエンジンがかからず遅刻した。ざわつく案件の意味。頻繁に起こる気になる出来事と気分。感情の扱いなどです。
また、実際の個別セッション等と違い、詳しく対話が出来る訳ではないので、あくまでも基礎的な簡易回答になります。
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(いただいたご質問等をYouTube等で取り上げさせていただき詳しく回答させていただく場合があります)











宅配物が予定通りに届かない場合は何のサインなのでしょうか?
そらのまめさんの背景や現状を知り得ませんので明確にこれはこうだとお答えする事が出来ません。
というのも、合図、サインと呼ばれるものは
その単発の出来事のみが発生している訳ではありません。
モノゴトはあらゆるものが連なり点に見えるものも実は線であり面としてつながっています。
それゆえに、単発の事象だけで「こういう事象は必ずこういうサインだ」という事にはならず
その人の背景や現状、思考や感情、そういったものを総合的に判断しひも解いていきます。
ですが、あえて今回のご質問に対してポイントとしてお答えさせていただくとしたならば、
「宅配物が予定通りに届かない」という
その事自体を考えるというよりは
その現象が起こった時に、何を感じどういう思いが出てきたのか
それが、今回の事自体に限らず、日常生活のあるゆる場面につながってくるヒントになっていきます。
ご返信ありがとうございます。
説明不足で申し訳ないです。
家にいても外にいてもソワソワしている感じで緊張が強い状態なのかなと思います。
宅配物が予定通りに届かないという現象が起きたときは、相手側に何があったのではないかという思いと同時に自分が悪いのではないか、自分が何が間違ったことをしてしまったのではないかという思いがありました。
過去を振り返ると、相手から自分にとって望ましくない反応をされたときにすぐ嫌われたのではないか、何か間違ったことをしたのかなとすぐにネガティブに考えて、ぐるぐると考えてしまうことが多々ありました。
まず「何か想定外のことが起きると、自分に原因を探してしまう」という反応(クセ)があるようですが
これは、頭でぐるぐる考えているだけでなく、身体が先に「何か悪いことが起きるかもしれない」と警戒し、その「理由」を頭が後から探している可能性があります。
つまり「自分が悪い」と考えていること自体より、
「原因が分からない状態にいられない」という「不確実性」への不安です。
なので、このように「自分を責める」ことで、「分からない現実の不安」をコントロール可能な現実に変えている点に気づくコトが重要です。
分からないことが起ったから不安になる、というより、
家でもソワソワしているということから、身体がすでに警戒(緊張)しているから、頭が「何が危険なの?」と理由を探し続けているところに事件(今回なら宅配物が予定通り届かない)がちょうど起こり、
緊張がピーク(やっぱり起こった、という安心)になる、という現象かもしれません。
つまり、身体の警戒に頭が物語をつけて納得させてる状態。
必要なのは「事実」と「真実(解釈)」を分けることと、「分からない」ことを頭で完結せず、残しておくこと。
モノゴトには「自分が関与できるもの」と「自分には決められないもの」があると認識し、
分離する訓練をしていくことで、心の器が育っていくと思います。
動画、ブログを参考にさせていただいております、ありがとうございます。
好かれたいという欲についてです。
なんとでもない知り合いや友達、家族には、私に対してどんな評価をされようが、私がその評価を選ばず自分の評価を自分に対する評価として選ぶので、一時的にショックは受けますが、そういう風に思ってるんだね、と思えます。
が、彼氏になると、彼の私に対する評価=私の評価と採用したくなってしまいます。
彼はこう思っているかもしれない、というのは私の解釈なので、真実を事実にしようとしてるな、と気づくことはできるようになってきました。
その一方で、万が一彼に直接確かめた私に対する評価が「僕はあなた(私)が嫌い」だった場合、感情を感じてみましたが恐ろしくて怖くて涙が止まらず、確かめるにまで至れそうにありません。
彼の気持ちをコントロールできないことは承知していますが、恋愛が上手くいくことにこだわりすぎているのでしょうか。私が彼を好き、という事実だけが恋愛なのでしょうか。
なお、事実を確かめるのを恐れるがあまり、出会った頃よりも会う頻度など少なくなり、会話できる機会も減っています。環境自体が変わったりしていることも踏まえると私が望んで引き起こしているのも理解できるので、深い関係を築けるようになりたいです。
頭優位で考えてしまい、体感覚でしかわからないこともあるかと思いますが、混乱しており、客観的にアドバイスをいただければ幸いです。
別ルートで、存在し、体験することが私の最大の望みであり、常にそれを達成している喜びは少しずつ体感覚として落とし込めている気がしています。
菫さん、こんにちは。長山です。
まず、好きな人には好かれたいですし、自分が好きな人にも、自分を好きでいてほしいという思いは、恋愛では自然な欲求ではなでしょうか。
なので「恋愛がうまくいくことに執着しすぎている」というより
恋愛そのものが【自己分析の場】になっている感じがします。
問題は「好かれたい欲をなくす」ことではなく、
好きな人だからこそ相手の評価が自分の存在価値にまで入り込んでしまうことにあると思うので、
観察すべき点は「彼に嫌われることが、自分にとって何を意味するのか?」ではないでしょうか。
もし「彼に嫌われる」=「自分は嫌われるような人間」となってしまっているとしたら
【彼の評価】が「自分の存在価値」を決定する判定になっているわけです。
事実と真実(解釈)、自分の課題と他者の課題がごちゃ混ぜになったまま、
感情を感じたり思考を巡らしても試行錯誤で終わります。
恋愛ほど「現実を視る」重要性を問われる場はありません。
相手の現実を知るということは、自分の望んでいない現実を受け入れることになるかもしれないからです。
しかしながら「絶対に嫌われないと確信したら、本音で接しよう」という姿勢でいると、
安全を優先すればするほど距離は遠ざかります。
「怖いから関係しない」のではなく、
「怖い、も存在させながら、少しずつ関係してみる」ことで心の器が少しづつ拡がります。
「別ルートで、存在し、体験することが私の最大の望み」とありますが、別ルートというのは「今のルート(道?やり方?)」ではない、というコトですか?
もしそうであれば、「今ここ」を否定して違う道、というコントロールになるかと思うので、
「その」抵抗の奥にある大事なモノに寄り添ってみるといいかもしれませんね。
早速のご回答ありがとうございます。とっても嬉しいです。
先生の仰るとおり、彼の評価や意見が自分の存在価値を決定する判定になることが多いです。自己分析をしているつもりが、他己分析(他人から見た私の分析)をしていたのですね…。私の思う私についての意見が無かったことにされていて、私が置いてけぼりですね。だから現実でも置いてけぼりだと感じるようなことが起きていたのかもしれません。
事実と真実を分け、自分自身の存在価値は出来事に依存しないことを、少しずつ体で理解できるようになっていきたいです。
“自分の望んでいない現実を受け入れることになるかもしれないからです。”
これはとても痛いところを突かれました…苦笑
「私はこう思う」という自分の意見を出すことを日頃から許していなかったので、「彼はこう思う」という彼の意見を存在させることが許せず、意見を聞くことが怖くなるのも納得です。
あとは、望んでいない意見や現実を受け入れる覚悟がないのだなとも感じました。(心の器の大きさが足りていないのは大前提ですが…)関係性が深まらないのは、やっぱり私が安全を優先しすぎてしまっていたからだったのですね。これもとても納得しました。
望んでいないことも受け入れる勇気を持とう、とちゃんと自分で思えました。それが今とても嬉しいです。
怖いを存在させながら、がんばります…。
望んでいないことも受け入れる勇気を持とう
↑
これも大切ですが、【「受け入れる」ことを怖れている自分】も受け入れるという姿勢も持っておくことも大切です。
つまり「どんな自分とも一緒にいる」です。
こんにちは。以前回答をいただいてから、感情を感じることを中心に実践しています。
体感を感じていると、最初は思考と感覚を同時に行ったり来たりしていますが、確かに思考が少しずつですが止まる感覚があります。
そこで質問です。
下腹部や胸の辺りなど、感じるものによって部位は異なりますが、どれも感覚なので感じている途中からよくわからなくなり消える?名前が無くなる?感じがします。
これは悲しい、寂しいというものは、頭が名づけているもので、実際はただ体に感覚があるだけなのでしょうか。
そうすると、悲しい寂しい辛いなどはただの名前で、何の意味も持たず、そこから自分の価値に繋げることも無意味だなと思い、気になったのでご教示いただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
こんにちは、菫さん。
おっしゃる通り、ある意味で「感情」とは、身体感覚のコトであり、単なるエネルギーです。
防衛本能として反射的に身に付いた記憶が残っている反応で、実体はありません。
しかし、だからといって感情(の名称)に「意味がない」わけではありません。
感情とは「感じる情報」なので、感情から自分を知る「情報」は受け取るが、感情に「自己価値」を決めさせないことが重要なポイントです。
「体感 →感情 →解釈 →自己価値」を区別して観察されるといいかと思います。
感情は単なる感覚だから「体感すれば消える」、という姿勢ですと、「消すために感じる」ようにもなり、感じた奥にある「大切なモノ」に触れられなくなるかもしれませんので。
長山先生、こんにちは。
以前も質問させていただいた
おそらく感情蓄積バロメーター➄➅の段階にいる者です。
拙い文章で申し訳ないのですがよろしくお願いいたします。
子どもによくかかる感染症なので特に珍しいことではないと思いますが
私は小学生の頃くらいからよく溶連菌になり、のどが痛くなっていました。
また、学生時代からは人と話し終わった後にのどに違和感が出て、咳払いをしたくなっていました。
部活動で大きな声や高めの声を出す必要があるときに周りの子よりも声が出なくて、注意されていた記憶があります。
自分が注目されることや声を聞かれることが怖く、人からどう思われるのかがすごく気になります。
また最近では復職日の1か月前になって、常時のどに違和感、痛みがある状態になり医者に行き風邪薬を飲んだのですが治らず。
その後耳鼻科に行ったのですが原因が分からず、(のちに乾燥が原因かもと言われました。たしかに食事中は痛みが少し抑えられています。)
話すとのどが痛いため、家族と話したくない、話すのが辛い状態になりました。
他にも症状があったこともあり、さすがにこの状態で復職できないなとなりました。
いつ症状が治るかも分からないため、休職期間を伸ばしたのですが会社の規定により退職となりました。
しかし、なぜか会社の片づけを行ったときに部署の方と一言ほど話す時間があったのですがその時はのどが痛くなかったです。
(胃はものすごい気持ち悪かったですが…)
他症状に加えて、現在ものどの違和感、話すと痛みが出るが続いており、
症状がでた頃よりは話せるようになりましたが痛いときと痛くないときがあり、話すことが辛いことが多いなという状態です。(6か月以上)
これは人と関わること、人と話すことにものすごい抵抗があるのでしょうか?
また、身体は動くので、抑えられるかは分からないのですが薬で症状を抑えてでも働いた方がいいのではないか
だったらどんな仕事がしたいんだろう?どんな仕事ならできるのだろう?と求人サイトを見て考えている自分、そして体調不良が悪化する自分と、
この状態で働いたらまた同じことを繰り返すのではないか、環境の変化というストレスに耐えられるのかと不安な自分がいます。
長山先生よろしければ、ご意見をお伺いできないでしょうか?
siroさん、前回の質問の回答(以下参照)でもお伝えしました通り、感情を感じたり、過去を含め出来事の意味を考えるのは今はしない方がいい、ということです。
前回引用↓
感情蓄積バロメーター➄➅の段階ですと、相当これまで我慢してこられたと思いますので、分離意識「優位」になってるハズです。
この意識で感情を感じたり思考で分析すること自体がよろしくないので、そういった時にはいったん保留にし、ムリしない、我慢もほどほどを心掛け、緊張が守りになってることを意識したら、身体感覚の確認をしていってください。
今ここを生きるにはどうしたらいいのでしょうか。不安や恐れから空騒ぎしている自分には気がついたのですが、そこからどうすればいいのかわかりません。
ミキさん、こんにちは。長山です。
まず最初の入り口として1日の動作を観察してみてください。実況中継のように、いちいち丁寧に。(今歩いてる、ごはんを食べている、何をしているといった感じです、普段無意識に動作している行動です)
そこから何気なく思ってる思考グセや感じていることが認識できてくるので、それをジャッジせずにまずは「ただ」みていくといいです。
長山先生、はじめまして。
YouTubeで先生を知り、本当に納得の内容で、動画とサイトを繰り返し見させていただいてます。今月のセミナーに初めて参加させていただくのですが、その前に少しご意見をいただければと思いメッセージさせていただきました。
今困っているのは仕事のことです。いえ、仕事が入ってこない、というのが正しいです。私は3年前に「自分で仕事をやろう!自立しよう!」と思い、起業塾に入りました。初めに入ったものからその後いくつも入り、高級車が買えるくらいの投資をしました。起業塾での教えは、snsで発信してお客さんを募るというものですが、毎日投稿しても、いくら学んでも、一向に仕事にならない。これは然学の「始めた動機」に問題があるとは思うのですが、、というのも、自立しようと思ったのは離婚したかったからです。夫とは数年口を聞かない、話したとしても「事務的な話」。夫婦喧嘩をすると、まだ小学生だった子どもに夫は、今すぐ離婚するとは決まってないのに「どちらと住みたい?」と聞く始末。私は子どもには決してそのような話はしませんでした。ただでさえ家の空気が悪く、それを絶対に察知している子どもに、そんなことがどうして聞けるのか‥と腹が立ちました。そんなことが積み重なって、子どもがもう少し大きくなるまでに、子どもを養えるくらいの自分になっていたかったからです。でも、この学びを知って、夫は合わせ鏡。周囲の人間関係を見渡してみても、一部の親戚との関係も良くない(嫌っているし嫌われている)、専業主婦のママ友とも縁が切れ(仕事すると言ったら離れていきました)、本当に仲のいいと言える友達もいない、、仕事がこんなに来ないのも、私の内側に問題があるんだと思い、久しぶりに自分の気持ちに寄り添っていきました。(昔から心理療法やメソッド、スピリチュアルや自己啓発に傾倒してきましたが、最近は全然自分に寄り添っていなかった、小手先だったと振り返りました。)そして「自分が自分を嫌っている」と分かりました。夜も4時間で目が覚める、目が覚めたと同時に激しい動悸がして不安で怖くて仕方がない‥不安で緊張した状態というのが良くなってはまた現れてを繰り返し、もう何十年続いています。(眠れないのは仕事の結果ばかりに気を取られているからと思っていますが、これは表面的なことかなと。)今回の起業の件もそうですが、深いところで、自分は「これが出来たんだ」と言えるものが何もない、だから自分のために「ここまで出来たんだ」というものを作ってあげたい、という気持ちが昔からあったと思います。でもフタをあけてみれば仕事になってない、出来てない。これは「出来る自分じゃないとダメ」と思ってる自意識過剰?なのかもと思いました。出来ても出来なくてもいいじゃん、やろうとしているだけ偉いよ、と自分に語りかけたりしていますが、一次的に楽になってもまたぶり返します。でも半面で、この「起業」や「仕事がない」などは、から騒ぎで、自分の何かを見たくないんだろうな‥とも感じています。
そこで伺いたいのは、起業塾の人は「もっともっと動け」「発信しろ」というのですが、然学の学びでは、今私が取るべき態度はステイなのかなと。そう思って8月くらいからペースを落としたりまったくやらなかったりしていますが、不安で仕方がないです(これはから騒ぎなんだと思っても、ステイの仕方すら分からない‥)。何がそんなに不安なの?と胸のドキドキに手を当てて聞いたりしていますが、、仕事がない、収入がない、未来がない、と不安になっているのかなと思っています(「ない」に焦点を当てすぎているので「ある」にフォーカスしようとしますが、すぐぶり返します)。9月末で起業塾が終わるので気持ちを整えたいです。どう考えればよろしいでしょうか。ちなみに夫も仕事が全く上手く行っていません(自営業)。大変長文になってしまい申し訳ないです。よろしくお願いします。
modoさん、こんにちは。長山です。
まず、お伝えしたいことは、
「夜も4時間で目が覚める」「目覚めたと同時に激しい動悸」「不安と緊張が何十年も続いている」とありますが、
これは「考え方を変えればいい」というレベルで扱わない方がいいケースです。
長年の睡眠障害や動悸自体については、まずは医療機関にもご相談ください。
トークコーナー2の動画でも解説させていただいていますが、形而上的な対処と現実的な形而下的対処はどちらも大切です。
身体的な原因や不安・睡眠の問題が重なっている状態では、思考や感情についてどうこうする段階ではありませんし、医療的な分野はわたしの専門ではありませんので的確なアドバイスはしかねます。
そのうえで言えることは、「もっと動くか、ステイするか」という「二択」にすることで、かえって苦しくなっているのではないかと思われます。
「仕事が来ないこと」そのものより、もっと根底にあるのは、
「自分一人で生きていける人間にならなければならない」「そのためには、できる自分にならなければならない」という強迫観念めいた「切迫感」ではないでしょうか。
なので、「動くか、止まるか」という行動選択を考える前に、
いったん「目的と手段」を分離して見直す時期ではないでしょうか。
仕事が来ない=やっぱり自分はダメだ、という回路が出来上がることで、
いつの間にかそれは仕事そのものではなく、「自己価値を証明する試験」になってしまいます。
つまり、起業をきっかけに、以前からの「痛み(自己否定)」を毎日証明する習慣になっているとしたら、
仕事が来ないことと、あなたに価値がないことは、まったく別の話であるので、「Be/Do/Have」の切り分けを意識する必要があるようです。
また、「Stay」とは、何もしないことではありません。
反応から次の行動を決めない時間を持ち、「不安だから動く」ことをせず、待つ。
つまり「不安からは動かないが、必要なことはする」姿勢です。
長山先生
早速的確なアドバイス、本当にありがとうございました。
4時間しか眠れない(それまでは眠れていたのに起業してから緊張して早くに目が覚める)、朝起きたら動悸がする(長年続いている)、これについて前に専門の医療機関にかかりました。結果異常は見当たらず、ああ、やはり自分の内側の問題なんだな、と思った次第です。
先生がおっしゃるように、「自分一人で生きていける人間にならなければならない」「そのためには、できる自分にならなければならない」という強迫観念めいた「切迫感」、いつの間にかそれは仕事そのものではなく、「自己価値を証明する試験」になっている‥その通りだと思いました。そして、トークコーナー2の動画も再度見させていただき、私はいったい何の目的でこうしているんだろう?と問いを立て、結果「自分を罰する目的」と感じられました。思いをめぐらすと、両親のことが出てきて、彼らは極端に仲が悪く暴力的で、私が5つの頃に夫婦喧嘩で父が母の髪をつかんで引きずる場面を目撃しました(その後何度も)。この時の恐怖や怒り、叫びたいくらいの不安は、過去に自分で見つめて終わらせてきた?と思っていましたが、今回改めて、「この両親の仲を戻すことが出来なかった」「自分がいても両親を仲良くさせることが出来なかった」「だからそんな自分はダメだ、無力、無価値」そんなことを思っているのかな、と。まだ分からないですが。
また先生がおっしゃるように、起業をきっかけに、以前からの「痛み(自己否定)」を毎日証明する習慣になっているんだと思います。そこで「Be/Do/Have」の切り分けを意識する、というのをやって行こうと思いますが、動画を拝見するのと同時に、切り分けるとは、具体的にどうすればいいのでしょうか。何度も質問してしまい申し訳ありません。お応えいただければ幸いです。
「具体的にどうしていったらいいのか?」というのは
個々人の置かれている具体的な状況やその方の思考の癖や特性などで千差万別となりますので
一概に今この場でこうですと書くのは難しいものがあります。
たとえば、最近公開させていただいた3チャンネルコラボ動画にて
オカモトくんとあいちゃんにお話しいただきましたが
そこでもあのお二方がまったく違う状況でまったく真逆の考え方が垣間見えたように
そこに対するアプローチの仕方は個々人によってかなり違いが出る事がお分かりいただけるかと思います。
ですので、今modoさんからいただいている情報のみで、こうしたらいいああしたらいいという個別的具体案は書く事が出来ません。
逆に具体的な回答を無理矢理してしまうと、更にmodoさんを混乱させてしまう可能性もあります。
この感想質問掲示板はあくまでも基礎的な簡易回答となりますことをご理解いただければと思います。
今月のガイダンスマップセミナーにご参加いただけるとの事でしたので
まずはその際に全体像に触れていただき、3部の質疑応答コーナーや特典についている個別セッション等の際に改めて具体的にご質問いただければと思います。
よろしくお願いいたします。
長山先生はじめまして。
岡本さんとアイさんとのコラボ動画を偶然見て然学に引き込まれて過去動画も見させていただいています。
趣味でソフトボールを毎週日曜日にやっていて、友人の車に同乗させてもらいグラウンドまで通っています。
その日は妻の体調が悪く早く帰ることに
したので同乗をお断りし自転車で行くことにしました。
対戦相手チームへの偵察も兼ねて家を早くに出ました。途中で何故か耳元でワザワザ動くものを感じ手で払おうとした際、左手の薬指を東京に出てきて40年近くになって初めてハチに刺されてしまいました。(田舎育ちなので子供の頃は刺された経験はあります)
幸運にも近くに薬局があり薬を購入し塗って事なきを得ましたが、結局集合時間には遅れて偵察も出来ませんでした。
これはどのようなサインなのでしょうか?教えていただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
エディさん、こんにちは。長山です。
動画からシンボルランゲージにご興味いただいたとのこと、嬉しいです。
起こった出来事(シンボル)の意味を問い、答え合わせ(ランゲージ)するときのポイントは、
今回でいうと「蜂に刺された=○○の意味」とシンボル(象徴)を単体で固定して読まないことが大切です。
「蜂に刺されたこと」で立ち止まるキッカケになった。
そして、それを含めてその日の全体を観て、前後に何が起きていたかを観察していきます。
この出来事は「結果として」集合時間に遅れ、「偵察」ができなかった。
つまり「早く行こう」としたのに、結果として遅くなった。
そして、「予定以上のことをしよう」としたら、予定していたことすら予定通りにはならなかった。という「逆転」が起きています。
重要なのは、「この結果を通して、何を問い直すことができるか?」です。
たとえば、「なぜ、早く出た時間をさらに何かに使おうとしたのか?」
常日頃から「予定に余裕ができると、そこへ別の予定を入れたくなるところはないだろうか?」
「せっかくだから、ついでに、という言葉で予定を増やしていないだろうか?」など。
そもそも「妻の体調が悪いから早く帰ろう」という判断が、その日の「今、為すべき大切なコト」だったと思います。
そこに「ついで」の「目的」が追加されました。
あと、エディさんの言葉で気になるのが「偵察」です。
「先に相手を知っておきたい」「未来に備えたい」という行為に対して、予測不能な蜂という存在によって予定を崩されたわけです。
この流れから、「先を読んで備える自分」と「何が起こるか分からない現実への憂い」というテーマを、ご自身の今後の「問い」として持ち続けられると、視えなかったものがみえてくると思います。
お世話になります。先日は質問に回答いただきありがとうございました。
ちょっとシンボルランゲージの本題とそれるかもしれませんが、先生の発信はなぜ
「圧が強い」や「説明がわかりにくい」
と一部で言われるのでしょうか?笑
勝手な解釈をすれば、そう簡単に分かってもらえる内容ではないので、あえてそうしているとも解釈はできなくはないのですが、先生自身は生徒さんなどにそういう印象があることについてどう捉えているのでしょうか?
また生徒にわかりにくく圧がある印象があることについて、先生自身はどういうお知らせや真の理由があると認識していますでしょうか?
なぜ気になったかというと、先生の内容がYouTubeの編集の人が対話をしながらまとめてくれることにより理解度が深まるくらいにわかりやすくなったからです。
先生はその対話シリーズに最初は乗り気ではなかったとおっしゃっていましたが、これも何かのシグナルとしてわかりやすく伝わる動画が完成したとも言えると思っているんですけど。。。
あまり他人のことを分析するのは失礼に当たることは重々承知ですが、ご教示いただければ幸いです。
P.S
先生の言葉や内容自体にはすごく愛は感じております 笑
ヒデさん、こんにちは。
20数年前にルドルフ・シュタイナー本である「神秘学概論」を手にしたとき、
まったく難解で飛ばし読みしながらも、常にそばに置いて現在に至ってる経緯があります。
その間、シュタイナーに関する分かりやすい書籍(各論)をいくつか読むも、
やはり彼のエッセンスがギュッとコンパクトにまとめられた概論が、教えの根底を支えていると思えたので、これを押さえずして各論(具体的な事象論)はないな、となりました。
なので、メンバー用に出している多くの動画(youtube動画より分かりにくい)や、その土台である「然学概論」という動画の内容は、
わたしの頭にある理解(抽象レベル)をそのまま動画化しているので、学び始めの方にとって、最初から「ワケわかめ」状態です。
これはあえて「そう(抽象度を高く)」しています。
なぜなら、メンバーは動画を観て分からなければ質問すればいいし、
最初から理解するための動画ではなく、あとから「答え合わせ的」に使えるようにしているからです。
また、日々の実践体験と、動画内容がリンクしたときの衝撃と感激が体感覚とリンクし、法則の「体得」にもつながります。
さらに、何度も観ることにより、脳の回路が「抽象(テーマ)と具体」を自在に行き来できるようになるためです。
メンバーからは、「分からない」「タイトルだけでも分かりやすくしてほしい」と言われますが、わたしからはしません。
よって理解したい方は、ご自身で工夫し解体しながら、マインドマップに落し込んだり、イラストで理解したり、インデックスを作って辞書のようにまとめたりしているようです。
メンバーからの悲鳴や、youtubeの視聴者さんから「分かりにくい(難しい)」「圧がある」「怖い」というコメントをもらうと、今は分からなくてもいい、それでも「分かりたい」と思ってもらえたら効果ありと思っています。
「圧や恐怖」は受け取る側の課題なので、わたしにはコントロールできませんしね。
はじめは理解不能で「もがいて」いたメンバーも、学びが深まるにつれ、内容を理解しはじめると、「わかめ動画」から「するめ動画(噛むほど味が出る)」に変貌していくようです。
筋トレ同様、ある程度、脳に「負荷」をかけないと抽象⇔具体の「回路」は形成されませんので。
しかして今回の編集Dくんの企画「然学トークコーナー」は、抽象への階段として必要な場合もあると感じたコトと、コントラストがあることで、より理解度が高まるというコトも分かった、そんな感じです。
ただし、シンボルランゲージは問題や悩み解決を目的としていませんので(最初の入口としてはいいが)
いかに起こる現象の構造をひも解き理解できるか、が肝心で、問題や悩みはその結果として終わっていく、という構造ですので
より具体的により分かりやすく、個別の案件として万人に向けて解説するという事もやろうと思えば可能ではありますが
目の前の問題悩みを消す事や願望成就の為だけに注力するというのはシンボルランゲージの本意ではありませんので、そのすべてに繋がっていく抽象度を上げた【テーマ】としての取り扱いをする事がメインになるという事ですね。
結局の根本は抽象度の高い場所にあるので、結果的に長い目で見るとその方が本質的だという事です。
それでも知りたい、理解したいと、ヒデさんのように食らいついてくる方がいらっしゃると、私としては嬉しいと思います。
少し踏み込んだ内容にもかかわらず、ご回答いただきありがとうございます。
「あえて抽象度を高くしている」ということを聞いて、私も良かったと思っております。
たぶんシンボルランゲージは最初から答えのような断定的な内容を相手に提供すると、何も考えずに受け手が受けてしまう可能性があるので、最初は抽象度の高いところから説明して本人に考えさせないと、お知らせや感情も千差万別なので本質にいきつきづらいということと認識しております。
たぶん受講者さんが「わかった!」といって先生に伝えても「それ、違うよ」と言われて、驚いて落ち込んで泣いて腹が立って感情が動いて、それでもまた学び直して…..みたいなことを繰り返すことによって本質が少しずつわかっていくのかもしれませんね。
ただ、入り口とはいえシンボルランゲージが願望成就や問題解決のためじゃないと言われると、今までの自己啓発やスピリチュアルとは全く違うことをいわれるのでほとんどの人が混乱するとは今でも思っています。
「なんだよ、本質って」
「願望成就や問題解決のためにやってるんだから意味分からない」
「よくわからないけど、先生のそばにいたら分かった気になれるから嬉しい (新興宗教にハマる人に多いパターン)」
みたいな人にとっては良い意味でしんどい学問だなとも思っています 笑
今度とも食らいついていきたいと思いますので、何卒よろしくお願いいたします。
【たぶん受講者さんが「わかった!」といって先生に伝えても「それ、違うよ」と言われて、驚いて落ち込んで泣いて腹が立って感情が動いて、それでもまた学び直して…..みたいなことを繰り返すことによって本質が少しずつわかっていくのかもしれませんね。】
↑
まさに、然学トレーニングを覗いた実況中継のような解説に、思わず笑っちゃいました~w
これは自然法の「構造」を知りたい方の禅問答的なやり取りですが、
もちろん純粋に「今」困っているピンポイントの問題を解決する「糸口」になるように、入り口の1つとして「個別セッション」等もご用意させていただいています。
長山先生、おはようございます。少し前からYou Tubeを視聴させて頂いております。
よろしくお願いいたします。
近所に住む幼なじみ(同級生)の母親が本当に苦手です。以前、その幼なじみに勘違いされたかもしれない出来事があったのですが(自宅の側で、私と一緒に居た私の知人が、少し離れた場所に居たその幼なじみの服装を見て笑ったことがありました。私は笑っていませんでしたが隣に居たために勘違いされたようです。)、その出来事を幼なじみが母親に話したのか、その直後からすれ違い様に、その母親に睨まれるようになりました。
時には立ち止まって、振り返りながら睨みつけられた事もあり、怖すぎました(その母親は甲高い声で早口で怒鳴るヒステリックな印象です)。
このような事になる以前にも、私の身内の葬儀に、町内会の方々と出席していただいた後、その母親にお礼の挨拶に伺ったことがあったのですが、嬉しそうに満面の笑顔で応対された時は、驚きと悔しさが入り混じった気持ちになりました。
最近、スーパーへ買い出しに行く際に、その母親と頻繁に会うのですが、これは何のサインなのでしょうか?
昨日も会ったのですが、すれ違う時に不自然に立ち止まって、カバンをゴソゴソ探る素振りを見せながら、こちらを上目遣いにジロジロ見てきて、その見方が本当に不気味でした。
この方の顔や表情を見ると、その日はどんよりした気分になると同時に、睨まれっぱなし、言われっぱなしという立場になりやすい無力な自分も感じてしまうのです。
関わりたくないのに頻繁に会ってしまうので、長山先生にお聞きしたくなりました。
よろしくお願いいたします。
ようこさん、こんにちは。長山です。
このようなケースでは、まず「頻繁に会う=何のサインか?」とする前に、
「事実と真実(解釈)」そして「感情」を切り分けることが大切です。
「最近この人(苦手な人)と頻繁に会うのはなぜだろう?」と考えたくなる気持ちは分かりますが、
頻繁に会うのだから、「何か意味があって会わされている」と考える前に、
近所に住んでいて同じスーパーを利用していれば、単純に生活圏や行動時間が重なっている、しかし「気になる人」だから「頻繁に会う」ように感じているだけかもしれません。
そのうえで、「この人と会うという出来事によって、自分の中の何が繰り返し反応しているのだろう?」と問うことに意味があります。
「怖い」「不気味」「悔しい」「どんよりする」といった感情があるようですが、
重要なカギは「睨まれっぱなし、言われっぱなしという立場になりやすい無力な自分」を感じている点です。
よって「なぜこの人が現れるのか?」と考えるより、
「威圧的な人を前にしたとき、私はなぜ『何もできない人』になってしまうのだろう?」という問いを立てることです。
なぜ、「相手がこちらを見た」「立ち止まった」「カバンを探るような動作をした」という事実を、
「監視されている」「嫌がらせをされてる」「自分に敵意を持っているかもしれない」という解釈が入るのか。
「そのように見えた、感じた」ことと「相手の意図がそう」であることは、明確に分けます。
一方で、「怖かった」「身体が緊張した」「その日はどんよりした気分」という、自分の中で実際に起きたことは否定する必要はありません。
つまり、相手が何を考えていたかは分からない。
しかし自分は確かに怖かった。この二つを同時に持つのです。
そして「何もできない自分」と感じているなら、本当に何もできないのかを考えてみます。
睨み返したり、喧嘩を挑む必要はありませんし、まして、相手に事情を説明し、誤解を解く必要もありません。
この方とは「関わらない」と自分で決めることも、立派な選択です。
スーパーで会ったとき「あの人がいて嫌だ」という領域から、
「あの人がいる。しかし自分は買い物を続ける」という状態にすることは可能です。
相手を変えるのでも、相手を好きになるのでも、自分の感情を消すのでもなく、相手が自分の内面を「占領する時間」を短くしていくと。
「この人と会ったとき、自分の何を相手に明け渡してしまうのだろう?」と問い、
このような、自分の感情の主導権を相手に支配されるようなコトを、いつ頃からやってるのだろうか、をみていくと
これまでのパターンである「無力な自分(錯覚ですが)」と触れたくない、「怖れの根本」に近づけるかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
無力感についてのお話を先生の動画の中で最近お聞きし、自分にも同じものがあることに気づいたところでした。
そちらの動画の中で罪悪感についても、無力感が根っこにあるようなお話もされていて、私もふとしたことで罪悪感を感じるので、とても興味深いお話でした。
事実と真実(解釈)と感情を切り分けること、
問いの立て方もたくさん教えてくださって本当にありがとうございます。
コツコツやっていきます。
普段、見るもの聞くものから瞬間的に身体に起こる不快な反応をそのままにできない自分が居ました。闘ってしまうのです。
「自分の何を相手に明け渡してしまうのだろう?」という問いも心に重く残りました。
他の方の質問のご返信にありました、「圧や恐怖は受け取る側の課題」という先生の言葉も、自分の課題だと感じました。
大切なお話を本当にありがとうございました。これからも先生の動画を楽しみにしております。
追伸
私は先生のお声のトーンや話し方がとても好きで、先生のお声からいつも安心感をいただいております。ありがとうございます。
お役に立てたのなら幸いです。
ご感想いただきありがとうございました ^^)
(※操作ミスのような形で投稿されなかったかもしれないため、再度投稿させて頂いております)
こんにちは。
自然の法則的にみて、どういった解釈、合図の解釈をするのかご教示いただけないでしょうか。
朝起床して10分くらいすると両脚(太腿・すね・ふくらはぎ)に蕁麻疹が出始め、そこから約1時間くらい少しずつ数が増え、同時に大きさも多くなるといった、ジワジワと蕁麻疹が成長する症状に襲われるようになりました。
状態が酷い時は、起床後だけでなく夕食後や入浴後もポツポツと多少は蕁麻疹が出ますが、基本的には起床してから発症が始まるのが特徴です。
ヒスタミンを抑えるアレルギーの薬を飲めば、その翌日や翌々日は、蕁麻疹が数粒出る程度で抑えられますが、服用してから3日目くらいになると、状態にもよりますが50粒~200粒くらい発症する状態になります。
長い間、「アレルギーの薬を飲む⇒2日間くらいは落ち着く⇒3日目は酷い⇒薬の服用⇒・・・」その繰り返しです。
ただ、何もしない/何もしなくていい生活を心掛けていくと、ゆっくりとその頻度は伸びます(1.2ヶ月後には、服用4日目で酷くなる、半年後には服用6日目で酷くなるイメージです)。
それでも、何もしなくていい生活では生きていけないため、何処のタイミングで『そろそろ働こうか』と考え始めて動き出していくと、反対に悪化傾向(発症するまでの期間が短くなる)へ向かいます。
蕁麻疹が出る時に、感情を感じてみよう!(今どんな気持ちだろう?)と向けても、『痒い!』『辛い!』『あーもうヤダ!』ってくらいです。
症状が良くなる/悪くなる経緯を見れば、『働きたくない(何もしたくない)ってこと?!』もしくは『朝早くから動きたくないってこと?!』くらいには見て取れます。
とはいえ、働かない生活は(または午後から仕事は)それはそれで特にすることが無く退屈なため、それが苦痛のような気持ちもあります。
先生から見て上記症状は、どういうメッセージや意味合いと考えられますか???
どうぞ宜しくお願いします。
ゆうさん、こんにちは。長山です。
操作ミスではなく、いただいたコメントに対してこちら側で確認し承認するまで表示されない仕様となっています。
仕様が分かりづらく何度も書き込みをさせてしまい申し訳ありません。
まず最初にお伝えしておきたいのは、蕁麻疹そのものを「働きたくないという身体からのメッセージ」と断定しないことです。
ヒスタミンを抑えるアレルギー薬で明確に抑えられていることから、身体側としては慢性蕁麻疹などを含めて皮膚科で評価する領域だということを第一にお考えください。
その上で、何もしなくていい生活になると症状が落ち着き、「そろそろ働こう」と動き始めると悪化するという点は、重要な観点だと思います。
とはいえ「働く= 蕁麻疹」が出るから、「働きたくないんだ」と結論づけると、一つの答えで蓋をしてしまう可能性があります。
大切なのは、「答えを決めること」ではなく、「何が起きているのかを丁寧に分離して観ること」です。
興味深いのは、「働いていると悪くなる」だけではなく、
「そろそろ働こうか、と考え始めて動き出すと悪くなる」ところです。
なので「仕事そのもの」だけが問題とは限らず「働こう」と思った瞬間、
ご自身の中でいったい何が始まるのでしょうか?
たとえば、「ちゃんとしなければ」「生活していかなければ」
「人に迷惑をかけてはいけない」「役に立たなければ」などの懸念はありませんか?
だとすると、身体が反応しているのは、「働くこと」ではなく、
「働くときに起動する自分自身の生き方」なのかもしれません。
あと「何もしないでいると身体は楽になる」しかし、「何もしない生活も退屈で苦痛」という一見、矛盾しているダブルバインドに苛まされているのかもしれません。
まずは、痒いものは痒い。辛いものは辛い。とし、無理に
「この蕁麻疹にはどんな意味があるんだろう?」と探し続けると
今度は「症状から答えを読み取らなければならない」という
新しい「頭の仕事」を身体に与えてしまいます。
むしろ観察してほしいのは、蕁麻疹が出ている最中より「出る前」です。
特に、「そろそろ働こうかな」と思ってから症状が悪化するまでの時間に
なんらかのヒントがあると思われます。。
これだけ症状が長引き、しかも蕁麻疹の出る数の違いなど、ダイエット中の体重の増減に一喜一憂するのと似ている部分も無きにしも非ずではないでしょうか。
いずれにせよ「働きたくないのか?」から「働こうとすると、私の中で何が始まるのか?」へ問いを変えることだと思われます。
丁寧に説明していただき、ありがとうございます。
数日、じっくり自身に目を向けてみた答えが以下です。改めて、見て頂けると幸いです。
<現時点の答え>
Q.働こうとすると何が始まるのか?
A.「人生を手放した感覚」や「苦しいこと/嫌なことを引き受ける感覚」が始まる
新たに働こうと、または短時間→長時間へと移行しようとすると・・・
・会社/事業所に従うだけの生活が始まる(8~10h/日)
・朝早く起きて夜に帰宅してそれが5日間続く生活が始まる
・興味はないけど契約した以上、会社や事業所発展のために目の前の物事に従事しないといけない
・歩きたい動きたいと解放されたくても、身動きが取れない職場環境(事務所など)に身を投じ続けないといけない
・自分とは考え方や取り組み方が違っても、上司の望む通りにさせられる
➡ 結局なんのために生まれてきたのか、そんな生活や人生を送るためにここまで来たのかを感じさせられる
それでも・・・
・これからも生きていくためには継続的な生活を成り立たせないといけない
・いつまでもこんな生活をしても仕方がない
・一大人一社会人として情けない/ダラしない
・とりあえず動けば何かヒントや発見があるかもしれない
そんな気持ちから、出来そうなことや続けられそうなことに目を向けて、とりあえず進んでみるを選んできました。
これまで・・・
やりたいことって何だろう?望む生活ってどんな生活?どんな人生を生きたいのだろう?何を大切にしたいんだろう?と質問を投げかけ続けてきましたが、ハッキリと感じたり見えてこなかったことから、
【どんな人生を生きたいのか/どんな仕事や働き方をしたいのか今は分からない(分かってしまったら困るから)】
を軸として、とりあえず上記に記載したように生活作りを試みてきました。
ただ結局、そこから何か展開されたり進むことは出来ませんでした。
➡ いつまでも経っても何がしたいか一向に分からない「土台」がぐらぐらな人生で、「脚」の蕁麻疹もちょっと良くなっては悪くなってを繰り返す
上記をふまえて改めて今すべきことや目を向けること・・・
先生はどう考えますか?
これまでのやり取りをみていると、
ゆうさんはまだ、「何がしたい?」「どんな人生がいい?」と問いを増やす段階ではないように思われます。
むしろ、すでにかなり長い間、「答えを出そう」「自分を理解しよう」「人生を前へ進めよう」としていること自体を考え直す必要があるかもしれません。
なぜなら、それ自体が、以前の「働く」と同じように、
知らず知らずのうちに自分への過度な要求になっている可能性があります。
先日のブログで記述した「中村天風とカリアッパの逸話」になぞらえるなら、
「答えを受け取れる状態」になる前に、答えを取りに「行きすぎている」と捉えると分かりやすいと思います。
これまで、「やりたいことは何だろう?」「どんな生活がしたいんだろう?」「どんな仕事がしたいんだろう?」「何を大切にしたいんだろう?」
と、ずいぶん自分に問い続けてこられたのだと思います。
それでも答えが出てこない(わからない)としたなら、今はもう「何がしたいの?」と自分に問い続けるとかえって
「何がしたいか分からない状態ではいけない」というところで苦しくなっているようにみえます。
「何をしたいか分からなくても、今ここに居ていい」という感覚に触れることが先ではないかと思います。
なので今、必要なのは、人生を決めることより、
決められない自分でも安心して存在できる器をつくることなのかもしれません。
以前、「何もしない生活だと身体は少しずつ落ち着く。でも何もしないのも退屈で苦しい」とありましたが、
この矛盾を焦って早く解決しなくてもいいと思います。
「働くと苦しい自分」と「何もしないのも苦しい自分」がいる。
これを同時存在させることを許してみてください。
今のままだと、答えられない子どもに何度も、「どうしたいの?」「何が欲しいの?」「早く言って」と聞き続けるようなもので、
本人はますます分からなくなってしまいます。
いま必要なのは質問ではなく、「分からなくても大丈夫。分かるまでここに居ていいよ」という時間なのかもしれません。
これは「何もしない・考えない」という意味ではありません。
「まだ分からない」を、そのまま持って生活してみる。
つまり問いを「考え続ける」のではなく、問いを「持ち続ける」ということです。
問いは本来、自分を開くためのものですが、真面目な方ほど「問いに答えなければ」という課題に変えてしまいます。
カリアッパ的に言えば、ここでさらに「問う」より、答えを求めている自分そのものが「静まる」のを待つ。
これがいつもお伝えしている「Stay」です。
これにより、ゆうさんの持つ、元々の考え方の「前提」を見直すことができるハズです。
質問宜しくお願いします。
kengoさんの動画も見させてもらっているのですが、その中で『やりたくない事は、断った方がいい』という話がありました。
やりたくない事をやらないというのは、不快を避ける、嫌な事から逃げる、とは違うのでしょうか?
大志さん、こんにちは。長山です。
『やりたくない事は、断った方がいい』というそのKengoくんの動画の話の前後が未視聴で不明なので、どんなニュアンスからの言葉かによって、意味は異なりますので、これとは切り離してお答えしますね。
「やりたくない事をやらない」のは「不快を避ける、嫌な事から逃げる」とは違います。
見た目だけでは「どちらもやらない」行為なので、ナニが違うか区別できないと思いますが、やらない選択をした理由(動機)が重要になります。
なので、理由によっては同じことになる場合もあれば、まったく違う場合もあるということです。
つまり、「やらない」という行為ではなく「なぜ、やらない」選択をしたのか?をみていくことです。
たとえば、「人前で話したくない」とした場合、
その奥に、「失敗したら恥ずかしい」「批判されたくない」「緊張するのが嫌だ」があり、
本当は人前で表現してみたい気持ちがあるのに、怖さを感じたくないために避けているのであれば、
これは「やりたくない」というより、「やりたいけれど、その途中で感じる不快を避けたい」ということになります。
なので、「やりたい/やりたくない」だけで判断せず、もう一段奥を見る必要がありますので、そのあたりを考慮されてみてください。
いつもお世話になってます。
シンボルランゲージの動画やコンテンツを勉強していると、最近面白いことに気づきました。
それは、「世間的に運が良いといわれている人は本当は同時に運が悪い」とも言えるのではないのかということです。
この仮説を象徴する出来事がこの前ありまして、実は私の母親は周りの人に助けられ続けて生きてきたと本人が言っていました。
そしてどんなピンチになっても運が良いからしばらくしたら自分の知らないところで解決してきたとも言っていました。
しかし母親にも解決できない問題があり、それは父親への苛立ちと10年間実家への訪問を拒絶している娘(私にとっては妹)のことです。
母親はいつも父親にイライラしていて、「私は奴隷ではない」「なんで家のことをやってくれないんだろう」「お礼の一つも言わない」と、私が実家へ帰るたびに毎回私に愚痴っています。
娘とはいろいろなことが積み重なって断絶状態になってしまい、もう生きているうちに会えないかもしれないという寂しさを吐露することも少なくありません。
私は自分の母親をみて思ったのが、確かに表面的には運が良く周りに助けられてきた人生だったかもしれないけど、実はその都度きちんと自分の感情を味わってきたり、その都度出てきたトラブルの本当のお知らせをキャッチすることなく時間が経過してしまったがために、自分の運の良さと努力だけでは解決できない根本的な問題が残ってしまったのかも、と感じるようになりました。
自分の内側にある深い層の部分に気づくことなく、何気なくピンチが去っていったりお金が入ってしまったり予想だにしない幸運を得てしまうことにより、お知らせがあるにもかかわらずにずっと見逃してしまった未処理の感情と根本的問題が残ったまま人生が進むのであれば、正直何が運が良いとか悪いとかは一概に決められないと思いました。
逆に、運がないとか周りが助けてくれないとか努力しても良くならないという人って、実はお知らせをむき出しで受けている状態なので、きちんと丁寧にひとつずつキャッチしていって感情を感じきることをしたほうが、本当は自然に自分の人生が整って生きやすくなるのでは?と思うようになりました。
そう考えると、この運の良さという概念もある意味レッテルやレジェンドが引き起こす現象の一つとも言えると思いますが、シンボルランゲージの観点からするとこの解釈の方向性は間違っていますでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
ヒデさん、こんにちは。長山です。
いつも楽しい質問ありがとうございます(^^♪
さて、表題の「運のよし悪し」についてですが、解釈の方向性は基本的には間違っていないと思います。
特に、「何が運が良く、何が運が悪いのかは、その出来事だけでは一概に決められないのではないか」という「全体性」への気づきはとても大切です。
ただ、単に「運が良い人は本当は運が悪い」「苦労する人ほど運が良い」と【反転させない】ことがポイントになります。
それをやると、「幸/不幸」という二元的「ジャッジ」の中で、
プラスとマイナスを入れ替えただけになってしまいます。
なので、
「そもそも、その時点で運がいい/悪いと決められるのだろうか?」と問い直す必要があります。
書かれているように、お母様が困ったときに誰かが助けてくれた。
これはその時点では確かに「ありがたい」ことなので、わざわざ「助けてもらったのは(先々を鑑みると)運が悪かった」と解釈する必要はないと思います。
ここで重要なのは
「問題が解決したこと」と「問題を生み出した根本が解消されたこと」は別ということです。
ここは対処法と根本治療の区別をしましょう。
たとえば、雨漏りしている家で床に水が溜まったとします。
誰かが来て水を拭いてくれたら「ありがたい」ことです、
しかし、床の水が処理されたことと、屋根から雨漏りする穴がなくなったことは同じではありません。
これはYouTube「問題の定義」動画で解説している、問題を問題と認識しない「泥水を沈める」ような先送り現象です。
人生の問題もこれと似ていますね。
助けてもらって楽になった。偶然お金が入った。環境が変わった。苦手な相手がいなくなった。時間が経って気にならなくなった等。
これらが起こると「解決した」と思いがちですが
実際には、「現象が消えた」だけなのか、「問題の構造まで変わった」のか分かりません。
しかしてシンボルランゲージ然学では、「それ」を明確にする方法があります。
現象が一時的に消えでも、また同じことが繰り返されるか、ヒデさんのお母様のケースのように、「目の前の問題」は消えても周囲に「あの問題」としてある、
つまり360度どこかで内側の未完了を見させられる場合は、「問題の構造」は残ったままというコトです。
ここで重要なのは、「幸運(助けられるとか)自体が問題なのではなく、
幸運によって根本が見えなくなったときに何が起こるか」を問うことです。
逆に、一見「運が悪い」とみえる人の場合も同じです。
何をしてもうまくいかない。誰も助けてくれない。問題が何度も起きる。逃げてもまた似た問題が出てくる等。
これらは確かに「つらい」ことです。
だからと言って「それはあなたへのありがたいお知らせ=幸運ですよ」と美化するのも安易なことです。
しかし、問題が消えないからこそ「もういい加減この問題と向き合わざるを得ない」という覚悟の地点へ連れていかれることがあります。
そういう意味では、表面的な「問題が解決しない」こと自体が、結果として深い変化への扉になることはあります。
然学でいう「お知らせ・合図」とは、
脅しや焦燥感を煽るモノではありません。まして「不運な出来事」がナニかの神秘的なメッセージなのでもなく、
単純にその出来事によって自分の中の「何が反応」しているのかを見るための「入り口」として捉えます。
このベクトルが自然にできてくると、望まない現実に対応している最中、「外側だけを直して(良くして)いて、本当に扱うべきものをまだ見ていないのではないか?」という問いが立てられていきます。
出来事を、「良いことが起きた=○」「悪いことが起きた=×」という一般論ではなく
「この出来事は、自分の中の何を可視化しているのだろう?」という象徴として読むわけです。
幸運(のように見えるコト)であっても、自分を見失うことがありますし、不運(のように見えるコト)であっても、自分を深く知れることがあります。
常に、出来事「単体」をみるだけでは、最終的な意味は決まらないと考えるのが重要です。
なぜなら、「何が起きたか」ではなく、「起きたことと、どう関係したか」によって状況が大きく変わるからです。
そして然学的に最も重要なのは、「運がよい人生を目指すこと」でも、逆に「苦労(合図)をありがたがること」でもありません。
起きた出来事を、自分と現実との「関係を深く知る」材料として扱えるようになることです。
そのプロセスとして、一時的に「臭(くさ)い物に蓋をする(痛み先送り)」ことで安心してもよし。
ただし、その間にどこが臭(にお)いの「根源」かを確認していければいい、そんな感じです。
お忙しいところご回答ありがとうございました。
“「幸運(助けられるとか)自体が問題なのではなく、幸運によって根本が見えなくなったときに何が起こるか」を問うこと”
↑ ですよね。すみません、文字が多くなると思って色々割愛してしまいましたが、私も極論ではなくそう観じていました。
私も助けられたり運が良かった出来事は確かにそのまま受け取ればいいとは思っています。
しかし世の中の大半の人はそこからなかなか深い層まで自分自身やお知らせを見逃してしまう、もしくはそもそも自分に起こったこと自体がお知らせとは認識していないので、
特に運が良かった場合はいろいろなお知らせがその運の良さで隠れてしまいがちの可能性があるので、表面上の運の良さ悪さで一喜一憂をしないことが大事という認識を持ちました。
ちなみに最近私はこのお知らせを感じるように意識したり感情をその都度感じたりし始めたら、最近は他人や世間のいろいろなことをジャッジしなくなってとても気持ちが楽になりました。
あと不思議とお知らせに関して問い続けることによって、答えが出なかったとしても問い続けるということ自体が心の安定につながることを体感しました。
そう、自分は今まで頭で考えすぎて悩みのど真ん中に積極的に入っていって火中の栗を自ら拾いにいっていましたが、問い続けることにより自然と悩みを客観視できることに気づきました。ということは禅問答ではないですけど、問い続けること自体が大事であって、正解や答えを見つけること自体が目的ではないという解釈をしたんですけど、これも方向性としてはおかしくはありませんでしょうか?
おっしゃる通りだと思います。「答えを出すことを急がない」ようになったのだと思います。
悩んでいるとき、私たちは無意識に、「なぜこうなった?」「どうすれば解決できる?」「何が正解なんだ?」「このお知らせの意味は?」と、早く答えを出そうとします。
ところが、
この状態では一見「問題を考えている」ようで、実際には問題の中に入り込んでいます。
まさにおっしゃるように、火中の栗を拾うために自ら火の中へ入っている状態ですよね。
問いを「考え続ける」のではなく、問いを「持ち続ける」。この姿勢が自然です。
いつもためになる知識ありがとうございます。
エセ、表面的感情と本当の感情を整理させて下さい。
本当の感情とは、悲しみ、寂しさ、無価値感、やるせなさ、などで、
怒り、後悔、劣等感、罪悪感、焦りは表面的な感情ですか?
私は無価値と罪人意識が強くあり、悲しみより怒りや罪悪感、後悔、焦りが湧いてきます。
saimoさん、こんにちは。長山です。
記載された感情は、内側に向かう感情か外側に向かう感情かの違いはありますが、すべて「本当の感情」です。
ここで言っている「エセ感情」とは、サバイバルモード(から騒ぎ)に入った分離意識で感じている感情の事です。
目安は、その感情を感じてもなかなか「静まらない」、思考優位になってる場合は「エセ感情」寄りだと思ったらいいです。
とはいえ、これまでそんな感情すら抑えてこられた場合、存在させ認識してあげたらいいですね。ただし、エセ感情は感じきることはせず、鵜呑みにしないで受け流してください。
ご回答ありがとうございます。怒りは表面の二次感情で、表面の感情=エセ感情(思考まみれの感情)と思っていました。正しく知れてよかったです。これからもゆっくり、自分に優しく、身体の感覚や感情を見ていきたいと思います。
いつも質問しようと思うと、掲示板の皆さんの質問に自分が知りたかった事があり、つながりを感じ、不思議な安心感で心が温かくなります。
うまく書けませんが、自分が本当に感じたい気持ちはこれなんだと思います。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
「自分が本当に感じたい気持ちはこれ」→それが純粋感情です。
エセ感情かどうかは身体が教えてくれますし、エセ感情が悪いわけではありません。
エセ感情→真に受けないで受け流す
純粋感情→じっくり味わい感じキル
これを心がけたらいいですね。
こんにちは。
合図の解釈をご教示いただけないでしょうか。
自営業でリラクゼーションサロンを1人で経営しています。
近隣に似た形態のサロンが出来ました。いわゆる競合、同業でお客様の取り合いになる立地です。
さらにこのサロンの経営者を面識はないが個人的に知っており(後輩のさらに後輩)、なかなか一生懸命にやられており自分としては不安もありあまり良い気持ちになれませんでした。
単に競合だからではなく、なんとなく後輩に負けたら恥、馬鹿にされたくないという気持ちが湧きました。
感情は向き合って感じある程度落ち着いていますが、この微妙に知っている後輩が同業でさらに近くに出店され…自分にとってどのような意味合いととれますでしょうか。
ちわわさん、こんにちは。長山です。
このケースはまず「競合店」と「後輩」を以下のテーマに分けて考えてみるといいと思います。
「経営上の不安」+「比較による自己価値の揺らぎ」
つまり「お客さんを取られるのが怖い」だけではなく、
「あの人(後輩)より下だと思われることがイヤ」という「自己価値と順位を結びつける部分」が混乱を大きくします。
なので結果に対する「競争心」は持っていても、自己価値まで争わないことではないでしょうか。
それを踏まえて「どちらが上か」ではなく「何が違うのか」という特性を問い、
「自分との差異を明確にしてくれる存在」としての競合他社(者)とみます。
「自分 vs 他者」という分離意識だと「お客さんを取るか、取られるか」という二項対立になりますので、
ちわわさんの内側の「対立」意識(ナニかに対しての迷い・葛藤)がコントロールしたくなるカタチで映し出されるでしょう。
この部分の視点を少し広げることで、同じ地域にリラクゼーションを必要としている人たちがいて
自分の店を好む人もいれば相手の店を好む人もいるし、両方を利用する人もいるでしょう。
そして複数のサロンがあることで、その地域に「身体をケアする」という文化そのものが広がる可能性もあります。
すると、競争相手でありながら、同じ領域を育てている仲間でもあるという、一見矛盾した見方が成立します。
これは古本屋さんや格安スーツ店が軒並みに出店する等、同業他社が協力している例(ただ形而下的な戦略としてが優位)をみてもわかります。
今回の事は「なぜ起きたのか」より、「起きたことによって、自分の何が見えたのか」と捉えると、みえているのは
おそらく、「負けたくない自分」「後輩より上でいたい自分」「評価されたい自分」「自分の価値を証明したい自分」「今まで築いてきたものを守りたい自分」
そしてここが一番重要なのですが「自分の仕事を本当に大切に思っている自分」が視えたかどうかです。
近所に同じような店がなければ、その店は単なる「リラクゼーションサロン」で成立していたものが、似た店ができることで、
「あなたの店は何が違うの?」と問われ、これは経営上、とても大切な問いではないでしょうか?
つまり、ちわわさんのサロンを始めた動機や大切にしているものを改めて見直す機会だというコトと、
恥とか馬鹿にされたくないという、元々ちわわさんの内側にあった「不安と恐怖」と向き合い(後輩の出店はキッカケに過ぎない)その感情の奥にある本心に触れてみる機会かもしれませんね。
ご丁寧に回答いただきまして、ありがとうございました。
細かな分析、アドバイスをもとに改めて向き合ってみます。
競合がいても、相手に負けても、やりたいことが隠れていそうな気がします。
ありがとうございました!
長山先生、こんにちは。
以前、自律神経系の疾患が約6年続いており、常に身体が「戦闘モード」にあります。と相談させていただいた者です。
休職して退職となり約1年仕事をしていませんが、休めば休むほど悪化している感じがしています。
前職を選んだ動機が「すごい自分、すばらしい自分になれそうだから」「将来困らなそうだから」という不純な動機だったことに気づきました。
当時、仕事に集中することで体調不良を感じなくて済み忘れることができるし、家にいてなにもしないこともしんどいので仕事していたなと思います。(それでも仕事中は体調が悪いのですが…)
感情を感じるようにしてから約6か月ほど経ちますが
過去の経験から罪びとの意識、罪悪感が強く、嫌なことや不快なことはすべて避けてきた人生なので、かなり恐怖や不安が強いです。
小さい時から今までかなり怖く、辛い思いを何度もしてきて、正直今生きているのが不思議なくらいです。
生きるのが辛いと思ったことも過去に何度もあります。
人の表情や態度、行動に常にビクビクしていて、すごく気になります。感受性が高いのだと思います。
また、かなり完璧主義です。
私はどうしたらよいでしょうか。
長山先生よろしければ、ご意見をお伺いできないでしょうか?
siroさん、こんにちは。
「小さい時から今までかなり怖く、辛い思いを何度もしてきて」とありますように、かなりの緊張度合いだと思われますので、先日ご回答させていただいたとおり「身体が実際に警戒を解除しても大丈夫だった、という経験を積む」ことを実践してみてください。
他者と関わる行動レベルでなくても、身体が、「戦闘はもう終わった」と認識するために、たとえば緊張していることに気づいたとき
「力を抜かなきゃ」と頑張らず、「肩が上がっている」「奥歯を噛んでいる」「お腹が固まっている」と、まず感じます。
そして、肩をほんの少し落として、10%くらいでいいので緩めてみることで、その後、ナニも(危険なことは)起こらないという体験をすることです。
身体感覚の確認という「リハビリ」から取り組んでみてください。
ご返信ありがとうございます。
【感情の感じ方】現実創造への具体的ステップ図解・悩みや問題のから騒ぎからホン騒ぎへ《然学/基本14》で紹介されていた
感情蓄積バロメーターでいうと私はおそらく⑤➅に当たるのだと思います。
この段階にいる場合は上記で回答いただいた身体感覚の確認という「リハビリ」に加えて、
具体的にどのように過ごしていけばよいのでしょうか?
また、感情を感じると過去の迷惑をかけてしまった出来事や自分を責めるような出来事を思い出して、そのことをぐるぐると考えてしまい、
さらに自分を責めてしまいます。このような場合はどうしたらよいでしょうか?
siroさん、こんにちは。
感情蓄積バロメーター➄➅の段階ですと、相当これまで我慢してこられたと思いますので、分離意識「優位」になってるハズです。
この意識で感情を感じたり思考で分析すること自体がよろしくないので、そういった時にはいったん保留にし、ムリしない、我慢もほどほどを心掛け、緊張が守りになってることを意識したら、身体感覚の確認をしていってください。
ご返信ありがとうございます。
休むことを許可できていない自分、休んでいることを責めている自分がいます。
自分よりも辛い症状、病気を抱えて仕事をされている方がいらっしゃるのではないか
休んでいることを誰かに責められるのではないかと思うこと、
1日のうち、何回かある数分くらい症状が落ち着いているときに私は休んでいていいのか?と考え、
自分を疑い、その後症状が悪化することがあります。
また、何かを見たり、聞いたりして笑っている自分にモヤモヤしています。
(休んでいて、何も出来ていない自分は楽しさを感じてはいけないのではないかと思っている?)
この場合は何度も休むことを自分に許可してあげていけばよいのでしょうか。
何かアドバイスいただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
頭で思ってる事が「事実」に基づくものなのか、「真実(解釈・思い込み)」に基づくものなのかを区別して、真実なら受け流してみてください。
事実と真実がごちゃ混ぜになってるように見受けられますので、
この状態で考えても堂々巡りになります。
詳しくは「現実を視る重要性」番外編のフローチャートを参照ください。
いつも考えさせられる動画ありがとうございます。質問させてください。
私は転職回数がとても多いです。入社したての頃は会社に貢献できることに喜びを感じるのですが、1〜2年経つと、他の人よりも働いているのに安月給なこと、仕事内容が単調なこと、組織体制が変わらないことに嫌気がさし退職してしまいます。年々周期が早くなっています。入社したときは、何があってもここで長く働く、と決意を固めているのですが、忍耐力がなく自分でも情けないです。転職活動はストレスなのでやりたくないです。だからこの状況が繰り返されるのでしょうか?どの会社でも同じように感じるので、原因は私にあるとはっきりと認識しています。何かアドバイスいただけますと幸いです。よろしくお願いします。
三村さん、こんにちは。長山です。
これは単なる「転職癖」というより、同じテーマの「問い」が、転職という舞台で会社を変えて「何度も示されている」状態として捉えられます。
「忍耐力もなく情けない」とすると「自分がダメ」という構図になりますが、「原因が自分にある」と「自分が悪い」はまったく違いますので
むしろ、「なぜ自分は、どの会社でも1〜2年すると同じような気持ちになるのか?」という『問い』に変えてみてください。
最初は「貢献できること」が嬉しいという喜びから、会社への不満へと変化していく様子を鑑みると、ベクトルが「自分→会社」だったエネルギーが、「会社→自分」へと反転していきますよね。
となると「期待→失望→離脱」の循環を繰り返しているのかもしれません。「何があってもここで長く働く」という気負いをみても、「今度こそ」という期待を会社に乗せているようですが、その背景には何があるのでしょうか?
もしかして「どんなに頑張っても『どうせ』報われない」が奥底にあるのかもしれませんので、まずは、自分の課題と会社の課題(期待)を切り離して観察してみてください。
そして「会社を変えずに、自分と会社との関係性を見直してみる」という実験もおすすめします。
ご回答ありがとうございます。今の会社にとどまって、自分を変えることでどう状況が変わるかを実験してみます。自分と会社との関係性の部分がよく理解できていないので、追加で質問させてください。確かに、「どんなに頑張っても結局は搾取されるだけ、いいように使われるだけ」という思いは根底にあります。会社には「今度こそ好きなことをする、自分の考えを形にする、楽しく働く」を期待していますが、裏返すと「会社の言いなりになりたくない」というネガティブな気持ちも持っています。お給料をもらうため、嫌な仕事も何でも引き受けるという姿勢が必要ですか?でもそうすると苦しくなってしまいます。
「会社の言いなりになりたくない」という思いが強いというコトは、
根底に「私は不自由な人間です」「私は利用される人間です」というものが「ある」という証です。
ナニをそんなに「怖れて」いるのかを、ご自身の奥に問いかけられてみてください。